煙管と発光ダイオード

 昼寝をしたら夢を見た。どうも夢の中では僕は教師で、小学校の6階(!!)で子どもたちに授業をしていると、一人の生徒が都合で早退するという話をして出て行った。別の先生がすぐさま教室に駆け込んでくると、すぐに追いかけないとまずいと言われ、慌てて廊下に出て階段を駆け下りようとすると、上だと言われる。今日は特別な日だからと言われて戻ると、確かに6階までの学校なのに7階へと登る階段が見えた。疑問に思いながらも視点は動き出し、8階まで駆け上る。授業中であったはずなのに窓の外は紅く暗い。廊下に電気はついておらず、その奥までは見通せない。教室の中も、何故か暗く全く視線が通らない。ここは黄昏時の今にしか無い場所であり、すぐに帰らなければお前も帰れなくなる。勿論子供もだ。用務員めいたおじいさんが現れて僕に話す。子供を見つけに行くか、自分だけ逃げるか。夢から醒める前にここから出た方が良いのではないか。その時おもむろに僕はこれが夢であることに気付いた。しかし、僕が行動を起こす前に視界は遠のき、僕は夢から醒めた。久しぶりに怖い夢を見た。

 学生時代、何度か不思議な経験をしたことがあった。そしてそれは、決まって母の実家に泊まりに行っていた時だった。大学に通い始めた当時、しばらく居候させて貰ったりもしたが、僕の小さい時からどんどん住んでいる人間が出入りして替わっていくのが印象的だった。僕の知っている中で最初に居なくなったのは、他界した曾祖父だ。僕の母方の曾祖父は、少なくとも記憶にある限り僕が物心ついた時点で既に少しボケ気味だった。元々寡黙な方だったこともあり、母の実家に行くとお会いすることはあったものの、言葉を交わした記憶はほとんどない。彼は郵便局のまあまあ偉い人物だったそうで、亡くなってから夫と比べてかくしゃくとしていた曾祖母に色々な話を聞いた。その中でもっとも鮮明に記憶に残っている話に、曾祖父が狐に会った話があった。祖父が職場から帰る際、まだ暗い、月明りしか照らすものの無い田舎の田んぼのあぜ道で、本来道が分かたれないところで3つに道が分かれていた。結構なハードスモーカーだったという曾祖父がそこで困って煙草を吸うと、道はたちまち一つになったという。これは、結構色々なところで聞かれる話で、狐、たばこ、などで検索すると似たような話がいくつもヒットする。

 実際に曾祖父が狐に会ったのかはともかく、少なくとも今現在狐に“遭う”人間は少ないのではないか。僕はここ10年辺りの変化については何でもスマホのせいにしてしまう癖があるのだが、これについてはきっと間違いでないと思う。インターネットによって伝達の定義が大きく塗り替わった後、新しい怪談というものは爆発的に拡散された。昭和から平成の初期にかけてのこっくりさんトイレの花子さんのような広く広まった怪談や、おそらくそれよりも古い帰路に狐に会うような類似の話がインターネットの無い時代にすら全国的に広がったのだ。インターネットによって趣味を共有する者たちが集まることが可能になった以上、それを越えて拡散されるのは当たり前ともいえ、実際、有名どころでは八尺様などのような話は相当な知名度を誇る。掲示板では「凸」と呼ばれるような実際に現場に行ってその状況をリアルタイムで投稿するような行為や、創作か否かはともかく自分や友人の経験談を語るものが多くあらわれた。しかしこの流れは徐々に失速する。僕は此処について、スマホとそれに付随したSNSの発展が影響していると思っている。情報のリアルタイム感が、あまりにも高まりすぎたのだ。

 かつてオカルト板が隆盛した頃、2ちゃんねるに限らず掲示板というのは今思えば不便なコンテンツであった。時代の差もあるが、携帯電話から投稿されることは想定されていなかったため、そもそも携帯で撮った写真を投稿時にリンクするような機能は存在しなかった。携帯から画像をアップロードする際には一度別の何かしらのアップローダーを用いねばならず、そのために携帯電話を用いたようなリアルタイムの投稿と写真の親和性は低く、その際に画像が上げられたとしてもアップローダーの保持期間は決して長いものではなかったのだ。そのため、それは主に文章によるものとなり、時折投稿されるような画像は逆にそれがほとんど何も見えないような暗い写真でも、妙な信憑性を発揮したものだ。

 しかしながら今のツイッターフェイスブックのようなSNSは、スマートフォンの発達によりそれから投稿されることを前提に設計されている。どんな投稿でも常に携帯ならば画像を貼ることが出来、そして大きく拡散されれば方々から人が現れてああだこうだとしゃべくることが出来るようになったのだ。そしてその結果、僕の知る限りおそらくインターネットでのホラー投稿という物は衰退の兆しを辿ることとなった。

 今思えば、逆に何故あれほど情報伝達に不便であった時代にそこまで同じ怪談が広まったのかの方が不思議である。様々な童話や地域性の高い物語には、ルーツを全く一にしないはずながら同じ展開をなぞるものがいくつもあると、これは民俗学などで確か追及されていたと思うが、誰から聞いたのか、どこで知ったのかもいまいち明確でないまま、思い出せばみんな知っているというのはそれ自体が一つの怪談と言えるのではないだろうか。文明が人の世を照らす中で、オカルトは追いやられ、伝説や怪奇はなりを潜め、科学が多くの事象を説明することが出来るようになった今、そこに最後に残った残滓が拭われていく中を僕たちは歩いているように思う。

 冒頭に書いた夢はなかなか忘れることが出来ず、何度も比較的鮮明に思い出せたために印象的で、再び続きから見ることへの恐怖から思わずブログとして書きつけたのだが、実はこのブログは書き始めてから此処まで1週間近く経っており、とりあえず今のところ夢の続きを見てはいない。きっと今晩も見ることは無いと、僕は自分に言い聞かせる。街灯に、コンビニの明かりに灯されて、僕はまた夜道を行く。いつもの道がふたつみっつとならぬよう、道の行く先を確かめながら。それを映すことへの期待を、こっそり心に抱きながら。

滲んで汚れた地図を抱いて

 僕は割と頻繁にゲームをプレイしているが、実はゲームが好きなわけではあんまりなかった。僕は小学時代に目を悪くしたことから親にあまりゲームを買ってもらえず、ゲームを遊ぶのは主に友達の家で、友達と一緒に遊ぶためであった。そんな僕が趣味に対して今持っているものは「誰かと会って何かをするほどアクティブなモチベーションは持っていないが、PC越しにだらだら喋りながら一緒にする何かは欲しい」程度の観念であり、故にそれは必ずしもゲームでなくても良く、例えば動画視聴やら雑談やらでも全く構わないのだ。とはいえやはり、家庭用ゲームの隆盛と共に少年期を謳歌してきた僕らにとって、むしろ遊ばないことに違和感を感じるほどゲームが人生基盤に食い込んできているのは間違いなく、ゲームを一切遊ばない自分など、もはやアイデンティティの崩壊もいいところだと言い切ることが出来る。動画視聴でも雑談でもいいが、それならやはり話題はゲームが良い。

 ところで、ゲームを遊べばゲーマーと気軽に言いがち言われがちで、実際それは決して間違ってはいないのだが、じゃあ自分はゲーマーなのかと言われると僕は首を縦には振りづらい。「日本人は趣味を趣味と認めるためのハードルを上げ過ぎる」というような風評はたまに見るが、しかしこれについては完全に、ゲームというカテゴリーに対する向き合い方の問題である。

 

 例えば、プロフィールで「趣味は野球です」と聞いたとする。そんな時あなたはその相手のどのような様子を想像するだろうか。おそらく、相手が休日に草野球なりバッティングセンターに通っているようなものではないか。強制するわけではないが、もしその人物が野球の試合を観たり、様々なそれにかかわるニュースを蒐集することを趣味にしているという場合なら、それは「趣味は野球観戦です」と答える方がより正確であろう。これは野球に限った話ではないが、要するに野球はそのコンテンツに対しての接し方が画一的ではない、様々な角度で楽しむことが出来る物だということだ。そして今、僕はゲームというカテゴリーもまた、それに近い厚みを得られてきていると思っている。

 

 その実態はひとまずとしても、e-sportsという単語が知られるようになって久しい。ゲームセンターのような競い合う場から家庭に環境を移したゲームに、再び競技性を求める人口が増えてきている。人々が集ったゲームセンターのように、インターネットの発達によりその場を必要とせずとも家庭のパソコンや筐体から世界中の対戦相手と交流することが出来るようになったのは、ゲームを取り巻く環境の中で最も大きな変化と言えるだろう(これはゲームセンターにとっては難しい問題でもある)。僕はLeague of Legendsというe-sportsを代表するゲームをシーズン3の終盤頃から遊んでいる(途中休止期間もあった)が、このゲームは確かにその代表として名を馳せるには十分の競技性と、それを支えるユーザー数を兼ね揃えたゲームであった。一方で、e-sportsという概念の定義は広く、例えばLoLではBrandのUltに代表されるような、ランダム性の強い要素を“e-sports”と揶揄する表現はよく使われる。僕が意外に感じたのは、シャドウバースというゲームが出た際にe-sports性を強調する発言が多々見られた時だった。確かにe-sportsが身体を動かすスポーツでない以上、1対1の競技としてe-sportsと表現するのは今思えば間違っていない。実際Detnationに代表される日本のプロゲーマーチームがシャドウバース部門を立ち上げた事を思うと。カードゲームとe-sportsの「シナジー」は決して悪くないものなのだろう(これについてはその先駆者であるハースストーンも証明している)。しかし、お互いに手札を切るカードゲームをスポーツと呼ぶ行為は、当初中々受け入れられなかったものだ。

 

 そんな中で、僕が一番衝撃を“e-sports”概念としての衝撃を受けたのはFF14のレイドレースだ。大迷宮バハムートの頃からレイドレースの概念やワールドファーストを掛けたチームや固定のどうこうはあったが、広くプレイヤー層で攻略中の配信などを取り沙汰されるようになったのは律動編辺りだろうか。アレキサンダー起動編の難易度が高く、またアレキサンダーから実装されたノーマルと零式の区分分けによって、高難易度レイドをプレイせず、観ることで済ませるユーザーが増えたこと、もしくは最上位プレイヤーといわゆるミドル層のユーザーのレベルの差が飛躍的に広がっていった事も考えられる。

 これは先述したハースストーンのようにWorld of Warcraftで既に通った道らしく、僕がそもそもFF14を始めるまであまりネットゲームに対してそれこそLoLくらいしか意欲的ではなかったことから来る無知なのだが、つまり何が言いたいかというと、僕はこの“プレイするユーザー”から“観るユーザー”へとここ最近でちょうど移行した人間だと言うことだ。レイドから完全に離れたわけではないが、練習に時間を割いて自分の動きを徹底的に詰めていこうと思うような気持ちは少なくとも今の僕には無くなっている。

 これについての一つ大きな要因が、もちろん僕自身が学生から社会人への変化を経てゲームに対してつぎ込むことが可能な時間が減ってきている事なのは間違いなく、またそんな中でソーシャルゲームのような片手間でプレイできるゲームを複数抱えていることもまた一つの要因だ。レイドのような集中して取り組むコンテンツを遊ぶ事が、他のゲームを遊ぶ時間を犠牲にしなくては果たすことが出来なくなってしまったのだ。

 

 ゲームを鑑賞するという観点は、今や決してマイナーではない。実際ゲームをリアルタイムで配信するストリーマーや、面白おかしく編集した動画にして投稿するyoutuberに代表される動画制作者は多く存在し、多大な人気を博している。そして例えば日本では、低年齢層を中心にそのような動画を観ることや配信者の話をすることが大きなトレンドにもなっている。しかし、果たして自分がプレイしていないゲームを他人が遊んでいるのを見ただけで語る彼らを“ゲーマー”と言えるだろうか?少なくとも、僕の定義では彼らはゲーマーではない。そもそも、ゲーム“プレイヤー”ですらない。とはいえ、これはゲームというカテゴリーを取り巻く形が複雑化している事の良い傾向であるとは思う。かつて製作者とユーザーというシンプルな形から始まったゲームというコンテンツが、極めて多くの人たちに今支えられている証左だ。・・・しかし、その中で自分がどのポジションに居たいのかという話になれば、またそれは別の問題となる。

 

 僕は確かにFF14を楽しんでいたし、追加パッチに一喜一憂し、レイドに期待して取り組んでいた。普段ゲームをあくまでツールとして楽しんでいた僕が、少なくともFF14では自分をゲーマーだと定義することが出来た。しかし、時が経つにつれ僕のその情熱は少しずつ冷め、少なくとも過去の自分ならこれに取り組んでいただろうというやや引いた立場の目線でそれを眺めるようになってしまった。これは、僕に大きな喪失感と悔しさを感じさせるのに十分だった。自分がかつて持っていたもの、発揮していたもの、それを今持たないこと、そしてもう恐らく得ることは出来ないという自己認識が出来てしまうことは深い落胆と悲しみを伴った。レイドが出来ないからではない。自分が一人のプレイヤーとしての立場から、動画や配信を観るだけでコンテンツを語る、少なくとも自分がゲーマーではないと定義していた人々に近づいて行っている事がとてもやるせなく、素直には受け入れ難かったのだ。ゲームに熱心に取り組んでいる人間なら自分をゲーマーと定義するだろう。配信することに情熱と誇りを持っているならストリーマーだと定義するだろう。つまりそこには、自分が行っているコンテンツへの付き合い方に誇りを持っているということだ。そして僕は、かつて持っていた誇りを今、徐々に見失っている最中だということだ。そんな中途半端な僕は、果たしてゲームを取り巻く環境の中で、自分のような立場を何と呼称すれば良いのだろう。

 

 人生に普遍は無く、環境は移り、いつかゲームにも終わりがやってくる。どんなに楽しんでいても時は過ぎていき、誰もが同じではいられない。今誇りをもって配信している人間が、5年前に何をしていたのか、そして5年後に何をしているのか。しかしそれは、ただ流されていくだけのものではないはずだ。ゲームというコンテンツを取り巻く環境は広がり、今やどのような形でも自分の関わり方を保証してくれるほどに、その裾野は広がっている。だけど僕は、そんな中でも自分の立場を明確にする定義を見つけたい。ファンボーイ?サポーター?オーディエンス?きっとそれはどれも違う。ゲームを程々にたしなみ、ガチになりきれず、しかし離れきることなど出来そうにもない。僕にとって、これはなんだかんだできっと大切なものなのだ。

 将来ますます世界は豊かに便利になり、僕たちは壮年期を、そして老年期をきっとまだ想像することも出来ないような環境に迎える。その未来でのゲーム体験は、今とは全く異なるものになるかもしれない。世間が変わり、僕たちが変わるように、きっとゲームの方だって変わるだろう。そんな将来、僕はそんな自分のアイデンティティをどう定義しているのだろうか。こんな中途半端な自分はどう変わっているのだろうか。願わくばそれが、今と変わらぬ友に囲まれ遊ぶ、幸福なものであらんことを。

電子の海で、また笑いましょう。

 逃げるは恥だが役に立つというドラマが去年流行った。僕は観ていなかったが、星野源が歌う主題歌の「恋」はそのダンスも含め社会現象となった。

 その歌詞の中に「この世にいる誰もふたりから」というフレーズがある。ヒトの家系図を始まりから結べばそれは生命の樹の根のような様子になるのだろう。僕たちは今その末端にあり、尚広がるのか、それとも腐りゆくのかは定かではない。

 環境破壊やら有資源の枯渇やら人類増加に追随する問題をメディアは大きく報道する。僕たちは進歩する中で常に周りを犠牲にし、気付いた時にはもう取り戻せないものばかりだ。環境が変わり、そして僕らの生活も変わる。人生は常に選択の連続だ。しかしそれは多くの場合、選ぶことではなく選ばないことで決定される。地球の人口は爆発的に増加しており、70億人を超えたという。しかし僕たちの生活を変えるのは何時だって選ぶ人間であり、そして僕らの大多数が選ばない人間であるがために、我が家の車は未だに空を飛ばないし、しかし第3次世界大戦はまだ起きていない。

 

 とはいえ人類家系図の末端にある僕らが、それまでの節々にあった彼らが「選ばなければ出来なかったこと」を「選ばずとも出来る」もしくは「たやすく選ぶことが出来る」というのは間違いない。僕は学生時代歴史の講義が好きだった。例えば群雄割拠の戦国時代、彼らはそれぞれのテリトリーを纏め上げ、覇を競いあった。伊達だの武田だの島津だの、南部だの里見だのと名を馳せた彼らの活躍は今も名高く伝えられ決して色褪せることはない。戦国武将ほどではないとはいえ、例えば地元のなんちゃら高校の〇〇先輩とか、どこどこのなんたらとか、つまるところその地元の比較的小さなコミュニティで名を挙げる文化が、昔と比べ今は衰退しているように思えるのだ。

 インターネットが発達し、個人が一生を経て関りを持つ人間の数は飛躍的に増加した。個人が多人数に対して意見を発することができる機会も大幅に増えたが、その中で他者と己を比較するケースも当然増加しており、各々が主張を行う上でネガティブな反応を忌避してそれをやめてしまう事も多々ある。

 しかしそれは決してマイナスな面だけの話ではない。昨今デジタルカードゲームが増えてきた中で話題になったことだが、店舗店舗での強弱、コミュニティが失われていく一方で誰もがランキングから上位の人間を確認し、また自分の立ち位置もはっきりとさせることが出来る。これは、例えばストイックに上を目指したいと思う人間にとって紛れもなくプラスだ。

 

 ソーシャルゲームやネットゲームが栄え(後者はやや怪しいが)、僕も日常的にプレイするようになった。僕はファイナルファンタジー14をメインに遊んでいるのだが、このゲームで最近面白い追加要素があった。

 FF14はそれぞれの装備ごとに性能が定められている。根幹的な性能を保証するアイテムレベルに、それに付随するサブステータスが存在し、自分の思うビルドを組むためにそれを組み合わせて装備を完成させる。多種多様な遊び方が出来るゲームだが、少なくともバトルコンテンツをメインにプレイするユーザーが目指すのは自分が理想とする装備のために目当てのコンテンツをクリアし、その装備を手に入れることである。

 一つ目の大型パッチであった「蒼天のイシュガルド」では、その最高アイテムレベルは270であった。武器のみ275のものが存在し、よほど悲惨なサブステータスでなければアイテムレベルを覆すことはないため、大抵のジョブはそのアイテムレベル275の武器がメインとなった。

 その武器が追加されてしばらく経ち、バトルをメインに遊ぶプレイヤーの多くがそれを手に入れ、6月に次の大型パッチが実装されるまでの長い休憩期間のようなものが訪れ、ユーザーが一息付いていたタイミングで、空島というコンテンツが追加された。

 空島はかつてネットゲームのメジャー要素の一つであり、また最近は下火になってしまったハック&スラッシュ要素の強いコンテンツであり、かつて実装されていたものがリメイク、再実装されたものである。このコンテンツで、非常に稀な確率ではあるものの最高アイテムレベルであった275を上回る280装備がドロップすることで話題となった。

 そもそも落ちるかどうかがランダムであり、落とすためのミッションが発生するかもランダムであり、また落ちたうえで自分が欲しいジョブのものであるとは限らず、さらにそこからランダムでサブステータスが設定されるという、これはカイジの沼か?と思わされるようなコンテンツである。しかし、前述した通りアイテムレベルはサブステータスよりも性能への影響が大きいため、よほどおかしなサブステータスをしていなければ既存の武器を完全に上回るものが手に入ることになった。

 僕はこのゲームのアイテムレベル上げを、甘えの排除であると思っている。スキル回しを突き詰めた時、このゲームは自らよりも装備が強い人間より活躍することができない。そのため、レイド開始直後のアイテムレベルが横並びな状態(最近はそうでもないが)、レイドの最終期がぼくは非常に好きである。勝てないのは自分のせい、というわけだ。

 空島は、どれだけ自分が上手くスキルを回し立ち回っても、レアアイテムを装備しただけのユーザーに圧倒されてしまうのではないかという疑念を持ったユーザーたちによりやや炎上した。しかしそんな一方で、誰も持っていないような装備で誰よりも飛びぬけた数字を出したいと考えるユーザーも多く、それなりに栄えるコンテンツとなった。

 

 FF14は、大型パッチが入ることで既存の装備を遥かに上回る装備が手に入るゲームであることを僕達は一度学んだ。新生エオルゼア時の最後と比べた時、HPもDPSも当時の約4倍の数字が出るようになった。

 今の最強の装備より強いものが、メインストーリーを攻略したり、お店に行くだけで手に入る。そういう世界だ。アイテムレベル280の装備を手に入れたところで、メインストーリーを一心不乱に進めれば更新するタイミングまで1日持つかどうかというレベルであろう。

 この記事を最初に書こうと思ったのは1か月以上前だったので、時期的に大分ずれてしまっているが、空島に280装備を求めて通うようなヘビーユーザーは、殆どが次の大型パッチでスタートダッシュを切り、ゲームの上位層に躍り出ようという人物であると思っている。しかし本当にそうしたい、そうなりたいと思うなら、するべきことはハクスラコンテンツを何十時間も何百時間も周回することではない。僕は蒼天のイシュガルド実装時、1度真剣にスタートダッシュを目指した。その時の記憶と経験から、これを読んだ誰かにメッセージを残せたらと思う。

 

 ゲームを効率的に進めることに最も必要なことはなんであるか。それは時間である。どれほど強力な装備を持っていても、眠ってしまっては眠っていないユーザーに勝てない。食事をしに行ったり、買い物に行ったりしている時間をどう削るかこそが最も肝要である。

 やるべきことはまず、アーリーアクセス前後のプレイ時間を確保することである。

 勿論働いていなければ学校にも通っていない人間も居ると思う。そのような方は後述する部分を読んでいただきたい。しかし仕事や学校に通っていれば、まずは休みを取らなくてはならない。仕事ならば有給の申請を早め早めから行い、それが通るように努め、学生ならばそこでまとまって学校を休んでも単位や講義の進捗に影響がないよう、あらかじめ努力して通ったり、出席を取ったりノートを取ったりしてくれる友人を探さなければならないのだ。これを怠ってしまい、仮にスタートダッシュに成功したとしても、その後大きな問題に発展してしまうと元も子もない。後顧の憂いを絶つためにも、今できることは今のうちにである。

 そして次に、買い物など身の回りのものの整頓だ。

 食事を取るな、トイレに行くな、ペットボトルでどうなどと言うつもりは全くない。しかし、いざとなってからトイレットペーパーが足りないだの、食材の追加買い出しに行くだの言っていてはお話にならないのは明白である。日用品はしっかりと備え、食事のレシピや計画も1週間分ほど改めて立てて準備しておくと良いだろう。

 最後に、心身を健康に保つことだ。人間の身体は突然無理をしようとしてもなかなか上手くはいかない。ネトゲと侮る人も多いかもしれないが、大型パッチ時はとにかく情報量が多い。それに加えてそれこそ眠らずにパソコンやテレビのディスプレイを長時間凝視し続けることになる。当然目、肩、腰へのダメージは大きく、体調を崩すことも十分にあり得る。だからこそ、今のうちからしっかりと筋トレや整体を行い、規則正しい時間に眠り生活リズムを作ろう。だらだらとした生活リズムの人間が突然デスマーチを行っても完遂することは難しい。健全な精神は健全な肉体に宿る、ということである。最後にものをいうのは体力だ。これを忘れないでほしい。

 

 つまり僕が言いたいことは、もしFF14が好きでやることが無くて今空島に通っているならば、好きなもののためにこそ健全に生活せよということである。だらだらと「紅蓮のリベレーター」が実装される日を待ちながら睡眠時間を削ってゲームをするなど愚の骨頂である。ライフプランを考え、今のうちに仕事や学業に精を出し、筋トレして整体行ってさっさと寝ることこそ、あなたが本当にするべきことだ。

 

 人類家系図の此処に至るまでの人々では決してできなかった、生まれも育った場所も違う人たちが、違うままに同じ世界を共有して関り合うということ。インターネットの発達は、他の何よりも出来ないことを出来ることに変えたものだと思う。時にはその関りが嫌になったり、喧嘩をしたりすることもある。でも僕たちはやっぱり、誰かと関わって、笑いあって、一緒に過ごすことが好きだ。

 今は一たび離れてしまっている人たちとも、6月の半ばにまた一緒に肩を並べられる日が来ることを、僕は心から楽しみにしている。

もしも私がハムスターであるならば

 突然だが僕はブログを更新する時前回の記事を読んだりしない。だから、第一人称が違ったり、前回との繋がりが全くなかったりするが、このブログはそういうものなのでそういうことにしてほしい。

 

 はてなブログではなくloadstoneという重度のネットゲーム中毒者のたどり着く死の谷めいたサイトで僕は昔、ゾディアックウェポンというアイテムを作成した際の振り返りを記事にした。最近それの現代バージョンであるアニマウェポンなるものを雪とホーリーバーストと暴力が支配する世界で完成させたので、それについての振り返りも、また書こうと思った。

 

 ところで、ゾディアックウェポンという結構作るのが面倒だったものをアニマウェポンという全く1からの作り直しに置き直す際に、運営はユーザーとの適切な距離感を維持する為わずかな譲歩をした。

 それは、ゾディアックウェポンを完成させたことのあるユーザーは、それを粉々に砕くことで7、8段階ある段階の最初をスキップ出来るというものだった。そして僕は、このアドバンテージを全く生かすことができなかった。

 

 当時ゾディアックウェポンを作った時、俺は大変意識の高いナイトだった。意識の高いというか、意思の高いナイトで、意思以外のサブステータスは全てゴミだと思っていたし、カーリアの玉転がしの誘導にAAを犠牲にするタンクは許されないと思っていた。ちなみにこれは未だに僕の中に許さないリストにある。

 しかし、環境が変わり、意思はオートアタックに乗らなくなり、まるでファイトグランドオーダーのようなクリティカルイズ最強ワールドが始まった。そんな中、俺は盾を捨て両手で剣を握ったりしたものの、最後には両手に剣を握ることになった。

 そんな中でわずかに自分のメインジョブが迷走していた時期が、わずかとはいえ2パッチ分くらいあり、これはほんの一瞬が5ヶ月ほどの表現に近いのだが、惜しくも僕がアニマウェポンを最初に作り始めたのはその時であった。

 そして、僕の最初のアニマウェポンは、なんか光る変な拳になった。

 

 というのも、当時タンクの攻撃力はSTRのみで構成されており、僕はSTRのアクセサリーをたくさん持っていた。そして僕は竜騎士というジョブが昔からあまり好きではないので(新生時代最後にカンストしたジョブで、今もカンストしているものの僕の竜はコンボがランダムでプロックすることをしない)、選択肢はモンクしかなかった。しかし、その後身内に忍者が1人もいなかったことなどが影響し、また昔サブ職として遊んでいた杵柄があったことから、僕は印術士に腰を落ち着けることとなった。

 

 そんなわけで、僕はアニマウェポンからずっと目を背けて生きて来た。それに転機が訪れたのは最近で、本当にふとした拍子に同じフリーカンパニーの仲間とクリスタルを集めようという事になった。正確なやりとりやきっかけは覚えていないものの、彼らのおかげで僕はまたなんか光る剣を両手に握っている。前書きが長くなったが、ここから段階とそれに費やした期間を書こうと思う。

 

新アートマ集め 6時間

  友人たちと全員ぶん揃うまで次のエリアに行けないというルールで集めた。自分はほぼ毎度最初に集まったものの、確か最後の低地ドラヴァニアでかなり詰まり苦労した記憶がある。緩和後であったとはいえ、アートマと比べるとさほど苦労はしなかった。ちなみにモンクの方は、エクスカリバーを砕いてスキップした。

 

50〜のID巡り 1週間ほど

 特別大変な行程ではないのだが、クリスタルを集めたメンバーとの時間的折り合いが付かず、先延ばしにしてしまった。結局全員でまとまって消化することはできなかったはずだ。

 

謎めいたと素材集め 10分

 実はこれは、自分はモンクの時に蛮族クエストを進める意味合いも含めてこなしてあった。今ではだいぶん緩和されているようだったが、その恩恵に預かることは出来なかった。とはいえ、余っていた蛮族通貨や謎めいたは、後のクリスタルサンドで輝くこととなる。

 

なんかクリタワで貰えるやつ 2日

 これも実は、トークンが溢れそうな時に交換していたため、2つあった。2日の間に週制限を跨いだので、結果的にだいぶん短い期間で終わることとなった。ちなみに、自分が作り始めたのはこれの交換に必要なトークンが減ったタイミングだ。

 

硬霊性岩とクリスタルサンド 1週間

 実は上とこれの間にまた1週間空いている。というのも、1週間後にパッチが当たるのを知っていたため、それを待機していたのだ。非常に苦しかったが、交換に必要なトークンが半分になったため、自分はここは大きく楽を出来たと思う。同時に上記の謎めいたがクリスタルサンドの交換に追加されたこと、元々自分がリーブ券が溢れた際に金策に大型リーブをこなすことがあったことから、クリスタルサンドにはあまり苦労しなかった。

 岩は、毎日全てのルーレットをこなし、コンテンツファインダーの初見を助け、そしてダンジョンを巡った。

 魔科学かシリウスか図書館の三択が人気どころだったようだ。しかし、シリウスや図書館は構成やパーティメンバーに影響されるぶんが大きく、やはり回数がそのまま個数に反映されるという精神的安定からも自分は魔科学を回ることが多かった。とはいえ、メンバーを揃えられるならシリウスや図書館は非常に高効率だと思う。何より大事なのは飽きずに続ける努力なので、気分転換に色々刺してみるのも良いと思う。火曜が偶然休みだったこともあり、火曜のリセ後の夜始め、ちょうど火曜の昼3時ごろに終わった。このタイミングが、次のコンテンツの難易度を大きく下げる事に貢献したと思う。

 

活性化クラスター 4日

 リセット前にこの段階には入れたため、レベルレのウィークリーを2回受けられたのが幸いした。とはいえ、伝承集めからの伝承集めは流石に萎える部分も大きく、息抜きしながらの進行となった。

 

輝き集め 7時間くらい

 起動1層の断章81個が全てを物語っている。残りは確かルレだと思う。ボーナスアンドオプレッサー、それ以外の言葉はない。

 というのも起動1層の効率があまりにも群を抜いているのだ。ゾディアックの際はエキルレやフロントライン、クリスタルタワーがしっかり纏まった数字を得られたが、今回はそれらと比べるとあまり効率が良いとは思えなかった。マハやダンスカーを周回したいのかと言われると、そうではないのだが。

 

 真蛮神巡り  その後2時間半くらい

特に言うことはない。人を集めて申請した。どちらかというと会話パートでイディルシャイアと往復させられたのがやや面倒だったか。

 

以上である。岩とサンドが群を抜いてだるく、これを緩和前にしていたら短期間では作ろうとしなかったと思う。とはいえ、しっかりコツコツと時間をかければどれも簡単に出来るようになっており、ゾディアックのノウスや終わりなきIDドロップの旅と比べれば楽になったと思う。起きてはハウケタを刺し続け、眠り、また起きてハウケタに刺すあの地獄はもう2度と見たくない。

 光り方も技術の進歩を感じさせる鮮やかなエフェクトで、もし余裕や元気のある人は拡張までに1本作ってみても楽しいかもしれない。

 拡張では赤魔を始めようと思っている。とはいえ、まずは何か1ジョブカンストさせてからか。

 

 それでは、今度はゲーム以外の記事を書くつもりでいる。また会いましょう。

情動は豊かに歪み繊細に微笑む

  Dead by Daylightという主に海外のファッキンクソナードオタクと地獄の追いかけっこをするゲームを47時間くらい遊んだ。

  4人の生存者と1人の追跡者に分かれて氷鬼のようなルールで競うゲームなのだが、鬼はみんな一様に恐ろしい姿をした化け物や殺人鬼であり、1vs1では生存者を圧倒的に超える能力で相手を追い詰める。

  細かい話はさておき、このゲームの面白いところはお互いに大いに心理戦を仕掛け合う点だ。自分が相手ならどうするか、相手の視点は今どこを見ているかを探り、裏をかくのが生存者側の醍醐味になる。しかし稀に捕まえた相手が死ぬまで、その目の前からピクリとも動かない鬼に出会うこと等があり、勝利もスコアも投げ捨て、周りに寄ってきた他の生存者にも目をくれずただこちらを眺めるそのディスプレイの向こうの表情を想像して恐ろしくなる時がある。おまえトイレでも行ってんのか?

 

  このブログを最後に更新した時はまだ大学に通っていたのでほぼ1年近く記事を書かなかったことになる。最近女の子の笑顔に胸を打たれることが多くなってきており、ツイッターの年上のフォロワー達が狂ったようにニチアサを視聴し少女向けゲームに没入するキッカケはもしやこのようなところにあるのではとわずかな危機感を感じる。

  おそらく、まだ多くのことを知らない純真な子どもが自分にできる全てをかけて取り組むからこそ出来る笑顔や涙に胸を打たれているのであろうと思う。歳をとるにつれ、学ばなければならないことは増え、せねばならぬことも増え、自分が小さな頃よりもよほど必死に努力して事を終えても、昔のようなひたいからこめかみをなぞり、後頭部に抜けるように笑う事や、全てを叩きつけるような激情の涙を流すことは出来なくなった。

  完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与えられた特権であるとは芥川の言葉だが、僕たちはきっと人生で得たどうでもよい知識や経験や常識の引き換えに、幼い頃の自分を突き動かしていたその心臓を失っていて、だからこそ子どものそれを見た時に胸の空洞を認識させられる。

  羞恥心やプライドに覆い隠されていると思い込んでいても、その感情を払い切ることが出来ないのは、きっとその奥にあるはずのものがない事を無意識に理解していて、しかし僕らは認めることが出来ないのだ。

  最近色々本を買っているがなかなか読むタイミングを見つけられない。何故だが昔のように移動中に読書をする習慣を失ってしまった。スマホのせいか?電子書籍だと読もうかなと思うこともあり、このためにkindleか何かに頼ろうかなとも考えるが、やはり本屋で目当ての本を見つけ表紙や背表紙をなぞる楽しみは捨てがたい。

  僕は腕時計があんまり好きではなくて、それもあってApple Watchに全く興味がなかったのだが、友人のスマホ乗り換えに便乗して色々説明を聞いたところApple Watchが少し欲しくなった。逆に、これくらい多機能で無ければ付けないのかもしれない。

  講義中にサボって本を読むと大いに捗った。大学を出て講義を受ける機会が(少なくともその間本を読めるようなものは)無くなり、自分は静かな図書館よりも、あの講義の声が本を読む良いBGMになっていたのだなと認識させられてしまった。とはいえ本を読むために大学に忍び込んで講義にお邪魔するわけにもいかず、此処はさっさと大人の読書の付き合い方を覚えなければならない場面だなと感じつつも、何か良い手段は無いかなと思案するばかりである。

  年末年始に買った「ビッグデータ・コネクト」と「オービタル・クラウド」をひとまず読んだら、また次の何かを書こうと思う。それではまた。

ステイインステップ

  生き物が個体として独立する上で、他の存在との区別をつける決定的なもの要因とは何なのであろうか。僕はこれを選択だと思う。

  人と人が向き合った時、己の全てを本当の意味で晒し会うことは出来ない。脳だか心だかが判断した思考や感情と、実際にそれを伝える伝達手段にはおおきなプロセスが存在しているからだ。言葉を選ぶと言う表現があるが、私たちは意図して選ばなくとも、無意識にそれが行えるようになっている。目と目で向き合っても、どれほど心から素直に向き合おうとしても、僕たちには数え切れない程のヴェールを介して存在している。更に言うなら、僕たちはそもそも普段相手に対して率直であろうとしているだろうか?

  人が交流するためのツールが大きく発達した現代で、僕たちを取り囲むヴェールはますます増えていき、ついには声も顔も仕草も相手に悟らせずにコミュニケーションを成立させることができるようになった。そんな環境で他人とコミュニケーションを取る際に、私たちを何をもって個人を判別すればいいのだろうか?名前ではない。アイコンでもない。他人の名義を名乗り乗っ取るような事件は大きなものから小さなものまで、常に僕たちの周りで起き続けている。スパムのように成り果てるならともかく、元々あった人格のように振り舞おうとされたとき、その区別をどこから察知できるのか。
  僕はそれを選択だと思う。この人はこういう時にこういう言動を取ってきた。だからこのような言動を行うのは妙だ。人生とは選択の積み重ねである。いくら他人になりすまそうとも、その人物が重ね続けてきた選択の理論を完全に模倣することなんて出来ない。…本当に?
  同じ事象を経験した際に、人はそれぞれに異なる感情を受けリアクションを選択する。僕たちが主体的な決定だと思っているすべては、しかしながら常に何かしらの影響に対するリアクションであり続ける。
  個人の選択から動機を読み解き続け、その綻びを覆い隠せるほどのヴェールさえあれば、人は誰かになれるのではないか?例えばそう……本人が追求してこれないような………亡くなった人とか??でももし、その亡くなったはずの人に成り切って選択を続けた結果、本人と対面するようなことになったら?

  ここまで書けばもう分かると思うけれど、つまり今回の話は劇場版ハーモニーのレビューだ。

  まずあの映画についてだが、作者が亡くなっていることもあり、物語の舞台をビジュアル的に表現するためのリソースが圧倒的に足りず、世界観の作画に大きな疑問が残った。また、尺をコントロールするための、特にクライマックスの言動の変化は僕わ大きく落胆させた。悲しい事件だった。駄作だと結論付けていた。

  ただ最近少し心境の変化があったので、それを取りまとめようと思う。

  集団自殺に失敗したトァンたちは疎遠になり、異なる道を進んだ。トァンは、ミァハの影を追い続け、ミァハが得るであろう知識と考えを求め続けた。自分が英雄視したミァハと同一の存在であろうとした。
  日本に戻ったトァンはキアンと会い、違う道を歩んだ彼女もまた、ミァハの作った名刺に描かれた3人のままであり続けた事を知る。トァンとキアンの時間はあの頃から変わっていない、亡きミァハを含めた3人の同志だった。
 
  ハーモニーは、自分の知っているミァハになろうとし続けたトァンが、自分の知らない人間になってしまったミァハの思考と理由を知るために彼女の今を追う話である。髪を伸ばし大きく姿を変えたトァンと、当時の面影を残して成長したミァハの姿も対照的といえる。

  ミァハの思考を成り立たせていた生まれの根源を知り、今のミァハの考えを知ったトァンは、目の前の彼女ではなく自分の中の同志でありイデオローグであったミァハを選択して銃の引き金を引く。原作と劇場版では此処での台詞と印象が大きく異なり、僕はそれが納得できずにいた。具体的に言えば、原作はキアンと父を殺した憎しみで。そして劇場版は好きだよと囁きながら、思い出を回想しながらとなる。
  原作の憎しみはトァンの、つまり彼女の中のミァハが同志であったキアンを殺した今のミァハに対して抱いた憎しみであり、そして劇場版の好きだよという台詞もまた、3人の同志であった彼女の中のミァハに告げたものであり、目の前のミァハに対する拒絶の言葉だと言えるのでは無いか。ハーモニープログラムが起動する中で回想されるシーンからも、劇場版においてトァンの心境が、決して尺の操作のために改変されたものでは無いのだと考えられる。

  ずっとあの映画について自分の中でわだかまりのようなものを抱え続けていたが、ようやく解放されたような気持ちである。ハーモニー劇場版、悪くない。いや、これから僕はこの作品を素晴らしい映画だよと言えるだろう。…建築物のデザインを除いて。何にせよ、もう劇場版ハーモニーについて考えたり語ることもないだろう。実に5か月かけた和解であった。

  

オルゴールの鍵

 日本は比較的治安が良い国だと思うけれど、それでも防犯意識への呼びかけはたびたび耳にする。女友達の家に訪問すると、ダブルロックを越えるトリプルロックに毎度少し笑ってしまうのだけれど、まあ防犯意識っていうものはあればあるだけ良いものなんだろう。
 こういうの、外部のシステムやアイテムに自意識を隔離して安心感を得ているだけで、逆に普段外出してる時とか、君は自分なり大切なバッグなりをちゃんと守ろうと出来てるの?防犯意識をしっかりしているから私は大丈夫って無意識に油断してるんじゃないか?って僕は思ってしまう。参考書買ったり塾に入ったりして満足して勉強をしなくなる、環境だけ進めて、その状況に安心を覚えて慢心する学生のような。

 カッコつけて見たけど、そんな僕は防犯意識がガバガバで、ちょっと買い物に出掛けるくらいなら鍵を掛けない。言い訳させてもらうと、防犯意識がないのではなく、僕は家の前で家の中に入るのに一度立ち止まる行為が死ぬほど嫌いだからだ。昔読んだ何かか、見た何かに影響されているんだと思うのだけど、外出から帰る僕の後を何かが憑いて来ていて、鍵を開けようとしている所で、階段から登ってきたソレと目があってしまうような、そんなビジョンが常にプレッシャーを与えてくるのだ。
 僕はいくつかそういう恐怖を感じるシチュエーションがある。鏡の中から手が伸びてくるのが怖いから鏡も見たくない。
 他にも幾つかあって、それは小さい頃のトラウマが端を成していたり、実体験だったり、何が切っ掛けなのかもう分からなかったりする。こういうの、みんな何かしらあるんじゃないかなって思う。

 話が逸れてしまったけど、ダブルロックの強みって、本気で解錠しようとした時にそれが難しいからじゃなくて、単純に二倍の時間が掛かるところにあるって何処かで見た記憶がある。見つかるリスクがある以上それも二倍になるわけで、鍵が一つの物件が他にいくらでもある以上、わざわざそのリスクを負う必要はない。物理的に解錠が出来ないんじゃなくて、その抑止力で防犯実績を上げている側面が大きいそうだ。

 僕の通っていた高校は3年生の体育祭を、学校のある名古屋市ではなく瀬戸市で行っていた。本当は他にちゃんとした理由があったかも知れないけれど、先生達は「学内でやるとおまえ等逃亡するから」と言っていた。参加すると体育の出席6回分が付く(逆に休むと失う)ので、ほぼほぼみんな参加していたと思う。
 それ自体は前後に楽しいイベントもあったので別に嫌な思い出があるわけではないが、これもまあ、わざわざ遊ぶためにこの隔離環境から出て周囲のスポットを調べたり、名古屋に戻るのは面倒だと思わせる一つの抑止力の形だったように思う。今思えば、いざ抜け出して名古屋に戻ったところでそこまで凄まじく手間が掛かったり、大変なことになるわけではなかったはずだ。たぶん。

 2月前(なんと書き始めたときは1ヶ月前だったようだ)、僕は金欠に喘いでいた。遊びにお金を使いすぎたわけでは無かったと思うが、急な用事が頻発して交通費や外食が必要になる機会が増えたり、体調不良からの病院での診察代に薬代に止めを刺された。
 ともかく金が無くなった僕は困って実家に救いを求めた(自分は金が無くなった時にその旨を伝えることで仕送りをしてもらう形になっていて、決まったタイミングで受け取っているわけではない)。

 そしてなんと、届いたのはお米券数枚であった。お米券なんて見るのは初めてだったけど、成る程こう来たかと思わず唸ってしまった。本来の用途以外に使いたければ金券ショップで売ればいい。フォロワーがTwitterでそう言った。僕もそうだなと感じた。
 しかし、行こうとは思わなかった。大体何か趣味なりで用立てる時、僕は京都駅か四条駅に出る。当然金券ショップも駅の近辺にはあるわけで、大して手間が増えるわけでもないが、それが不思議と意欲が遠のいていくのだった。
 親が必ずしもその手間を惜しませる事を意図したとは限らない。偶然何かで受け取ったものを、これ幸いと僕に送りつけてきただけかも知れない。
 何にせよ、僕の手元には未だにそのお米券が残っている。「一手間」の存在は大きいなと、僕は財布の中のそれを見る度思い出す。料理にせよ何にせよ、一手間かける事を惜しまないというのは面倒だが大切なことだ。この出来事は些細なことだが、身を持って僕に教えてくれた。

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