オルゴールの鍵

 日本は比較的治安が良い国だと思うけれど、それでも防犯意識への呼びかけはたびたび耳にする。女友達の家に訪問すると、ダブルロックを越えるトリプルロックに毎度少し笑ってしまうのだけれど、まあ防犯意識っていうものはあればあるだけ良いものなんだろう。
 こういうの、外部のシステムやアイテムに自意識を隔離して安心感を得ているだけで、逆に普段外出してる時とか、君は自分なり大切なバッグなりをちゃんと守ろうと出来てるの?防犯意識をしっかりしているから私は大丈夫って無意識に油断してるんじゃないか?って僕は思ってしまう。参考書買ったり塾に入ったりして満足して勉強をしなくなる、環境だけ進めて、その状況に安心を覚えて慢心する学生のような。

 カッコつけて見たけど、そんな僕は防犯意識がガバガバで、ちょっと買い物に出掛けるくらいなら鍵を掛けない。言い訳させてもらうと、防犯意識がないのではなく、僕は家の前で家の中に入るのに一度立ち止まる行為が死ぬほど嫌いだからだ。昔読んだ何かか、見た何かに影響されているんだと思うのだけど、外出から帰る僕の後を何かが憑いて来ていて、鍵を開けようとしている所で、階段から登ってきたソレと目があってしまうような、そんなビジョンが常にプレッシャーを与えてくるのだ。
 僕はいくつかそういう恐怖を感じるシチュエーションがある。鏡の中から手が伸びてくるのが怖いから鏡も見たくない。
 他にも幾つかあって、それは小さい頃のトラウマが端を成していたり、実体験だったり、何が切っ掛けなのかもう分からなかったりする。こういうの、みんな何かしらあるんじゃないかなって思う。

 話が逸れてしまったけど、ダブルロックの強みって、本気で解錠しようとした時にそれが難しいからじゃなくて、単純に二倍の時間が掛かるところにあるって何処かで見た記憶がある。見つかるリスクがある以上それも二倍になるわけで、鍵が一つの物件が他にいくらでもある以上、わざわざそのリスクを負う必要はない。物理的に解錠が出来ないんじゃなくて、その抑止力で防犯実績を上げている側面が大きいそうだ。

 僕の通っていた高校は3年生の体育祭を、学校のある名古屋市ではなく瀬戸市で行っていた。本当は他にちゃんとした理由があったかも知れないけれど、先生達は「学内でやるとおまえ等逃亡するから」と言っていた。参加すると体育の出席6回分が付く(逆に休むと失う)ので、ほぼほぼみんな参加していたと思う。
 それ自体は前後に楽しいイベントもあったので別に嫌な思い出があるわけではないが、これもまあ、わざわざ遊ぶためにこの隔離環境から出て周囲のスポットを調べたり、名古屋に戻るのは面倒だと思わせる一つの抑止力の形だったように思う。今思えば、いざ抜け出して名古屋に戻ったところでそこまで凄まじく手間が掛かったり、大変なことになるわけではなかったはずだ。たぶん。

 2月前(なんと書き始めたときは1ヶ月前だったようだ)、僕は金欠に喘いでいた。遊びにお金を使いすぎたわけでは無かったと思うが、急な用事が頻発して交通費や外食が必要になる機会が増えたり、体調不良からの病院での診察代に薬代に止めを刺された。
 ともかく金が無くなった僕は困って実家に救いを求めた(自分は金が無くなった時にその旨を伝えることで仕送りをしてもらう形になっていて、決まったタイミングで受け取っているわけではない)。

 そしてなんと、届いたのはお米券数枚であった。お米券なんて見るのは初めてだったけど、成る程こう来たかと思わず唸ってしまった。本来の用途以外に使いたければ金券ショップで売ればいい。フォロワーがTwitterでそう言った。僕もそうだなと感じた。
 しかし、行こうとは思わなかった。大体何か趣味なりで用立てる時、僕は京都駅か四条駅に出る。当然金券ショップも駅の近辺にはあるわけで、大して手間が増えるわけでもないが、それが不思議と意欲が遠のいていくのだった。
 親が必ずしもその手間を惜しませる事を意図したとは限らない。偶然何かで受け取ったものを、これ幸いと僕に送りつけてきただけかも知れない。
 何にせよ、僕の手元には未だにそのお米券が残っている。「一手間」の存在は大きいなと、僕は財布の中のそれを見る度思い出す。料理にせよ何にせよ、一手間かける事を惜しまないというのは面倒だが大切なことだ。この出来事は些細なことだが、身を持って僕に教えてくれた。

抗生物質の獣

 寒い。
 12月になってからはわりかし元気にやれるようになったが、10月、11月は体調を崩しがちで、良く大学を休んだ。
 というのも、きっかけは何処で拾ったのか分からんような風邪が何時までも完治せず、小康状態と悪化をかれこれ3週間近く繰り返した。病院に通うのを良しとしない家庭で育ったために診察を受けるのが遅くなったが、結局のところ気管支炎だった。

 前述した通り僕は症状の早いうちに病院に行くという考えがなく、もっとも辛いタイミングは一人暮らしの常として布団から出られないため、必然的に治りかけてから「こういう症状でした」という報告をするために病院に向かうことが多い。
 医者はそうかそうかと症状に併せて1週間分、2週間分の薬を出してくれるが、何分ほぼほぼ快復に向かっているために1日か2日飲んでおわりにしてしまう。そんなわけで、僕は今まで処方された薬を飲みきった経験がなかった。
 それもまた僕が病院から足を遠ざける理由の一つとなっていたのだが完治しきらず症状を繰り返した結果、人生で初めて病院で処方された薬を全て飲みきる結果となった。個人的な感想としてはこれは大きな快挙であり、しかしこの感動と衝撃を筆者の方に共感してもらうのが困難なのは想像に難くない。

 それはそうとして、寝て起きる生活を2、3日も続けていると生活リズムが大きく崩れてくる。体調が落ち着いているときは大学に顔を出したり(その結果再び悪化するのだが)飲み物を補充しに外出したりしたが、その多くは夜か早朝であり、また12月に入ってしばらく極端に早く起床する日々があったために、これまで3年過ごして尚見たことの無かった町の景観を目の当たりとすることとなった。
 ベッドタウンであるために深夜早朝は静かなものであるとばかり思い込んでいたが、それは想像していた以上に静かで、しかし一方で思いがけないほど雑踏に溢れていた。これまで廃屋か何かだと思っていた古い居酒屋に明かりが灯り、声が漏れだし高齢者と中年の男女が電柱の下でなにやら話し込む様はとても夜中3時とは思えぬものである。終電も無くなり閉じることのなくなった踏切から眺めるその景色は、冬の風の冷たさも相まって、まるで自分が初めて訪れる街並みのようであった。
 無性に嬉しくなった僕は、しかし4月にはもう離れるであろう街並みが急に惜しくなった。自分はこれほどに住んでいる街を知らなかったのか。しばしば夜中に外出するようになったことが、何時までも体調が完治しなかった理由の一つであることは否定出来ないが、今更この街に親近感を持てたように思う。

 そういえば歩いてて見つけたのだが、最近新しいスーパーマーケットが近くに出来た。家の周りには4件のスーパーがあったが、そのうちの一つに隣接させる強気な経営戦術であった。
 これは後からネットで知ったが、その新しい店舗に対抗するために近隣の店舗が営業時間を延ばしたようだ。価格競争も激しいのか、今までまるで見たことのなかったチラシも入るようになった。
 お金の消費は少し激しくなったが、おかげで最近、買い物と自炊がとても楽しい。
 

ハーモニー感想(ネタバレあり)

この記事には映画「ハーモニー」及び原作小説の展開、ストーリーの核心に迫る要素が多大に含まれています。

映画「ハーモニー」を観ていることを前提に書いています。観ずに読む人は





















 まず第一に尺が足りてない。小説一冊でこんなにも時間が足りなくなるかって衝撃だった。序盤の日本に戻るまでのシーンとか凄い駆け足で、話が進み始めるまで結構なペースなんだけど、それでも最後にえ、マジ?此処で終わらせたら絶対にダメでしょ?って終わり方をする。

 前述したように話が進むまでに結構なペースがあるんだけど、その中で回想されてた学生時代のトァン達のやりとりの、非常にセンシティブなシーンがカットされてる。ミァハが憎んだ世界の描写になるシーンが、映画だから散々画面に映るし良いよねみたいなノリでカットされるのは、納得できなくはないんだけど、納得しきれない。後なんかホントに謎のレズ要素がある。

 で、これが一番の問題なんだけど、エンディングへの入り方がヤバい。最後死に逝くミァハを連れて登っていくシーンが完全に消滅してるし、何よりトァンのミァハを撃つ動機がキアンと父を殺された復讐から、今の変わってしまったミァハよりも大好きだった過去のミァハを選ぶという物になってる。最後の台詞が「好きだよ、ミァハ」ってうっそだろおまえ!?このエンディングだけは流石に納得できないよ!

 語らずに演出するシーンが多くて、例えば最後ハーモニープロジェクトが起動した後の描写とか、知ってるからあーなるほどねって解るけれど、だからって納得できるシーン演出ではないし、何よりこれ映画で前知識無しに観る人は絶対わかんねえよ!

 SF小説としてキャラクターの要素があまり描かれていなかった物が、良いのか悪いのか映画では大分焦点を当てられていて、特にキアンが顕著だった。これは良かったと思うんだけど、でもラストでキアンとヌァザを殺された恨みを吐露するシーン無くなってたら、散々キアンを描写した意味の半分は消失してない?って思うし、いやでも百合の仲良し3人組エンドとして終わらせるならそれでもいいのか…?。そのエンドが良いかは完全に別の問題だけど。

 場面ごとの見せ方はすげえ良かったし、映画にする上でストーリーの展開が少し調整されているのは仕方ないかなとも思うし、それによって大分分かりやすくなってるシーンも多かった。
 ああ映画ならではだなって思わず鳥肌が立つシーンもあったし、残酷なシーンの描写もこういう風に映すのか~やるな~って感じさせられるものがあった。

一つ一つのシーンはすげえ良かったけど、組み合わせる上でどうしても時間が足りなくてこういう結果になったのかなあと思わされるし、まあしゃあないかなって感じ。あと15分あればと思うと本当に残念で仕方ない。

 でもこの映画が公開されたからと言って原作小説が否定されるわけじゃないし、映画しか観てないって人は是非小説も読んでくれると嬉しいです。
 小説を読んでから映画を観ると微妙かもしれないけど、逆はすげえ楽しめると思います。
 観た直後の感想なんで、また落ち着いたら色々思い出してまた書くかも。
 とりあえずそんな感じで。

天才料理人

 僕はホットケーキを焼くのが下手だ。名古屋県出身だから、喫茶店に通う比率が高いのは特に京都に来てから実感するけれど、喫茶店でホットケーキを頼んだことは無いと思うし、実家で母が焼いてくれたこともほとんど無いと思う。

 ただ、なんかたまにどうしても食べたくなることがあって、下宿を始めてから何度かスーパーでホットケーキミックスを買ったことがある。
 人生で一番幸せなときは何時?と聞かれたら、僕は間違いなく料理のモチベーションが高いときに何を作るか決めないままスーパーに入ったときがそれなんだけど、今ではそんな僕も失敗を繰り返した結果、ホットケーキミックスだけは買わなくなった。

 ホットケーキが上手く作れないと言ってもいまいち分からん人も居ると思う。僕が作るホットケーキは恐ろしく水分を吸うことに飢えていて、まるでマインクラフトのスポンジブロックのように僕の口中を砂漠バイオームに変えてしまう。かなしいおもいでしか無かったが、最近ふとした機会にホットケーキが作れない男を卒業しようと再度挑戦してみようと思った。

 結論からして僕の失敗は膨張率を甘く見て一度に焼きすぎることが原因だったと分かった。ココア粉末を混ぜてみたり工夫を加える余地も出来たが、結局まあこんなもんかというラインを越えることは出来なかった。ホットケーキがまあまあ作れる男の誕生である。

 小さい頃珍しく母がホットケーキを作ってくれた時、焼く前のペーストを味見したときにその美味しさに感動し、何故これを焼くのかと疑問に思ったのだが、一人暮らしの下宿で誰も咎める人は居ないはずなのに、律儀に焼いてしまうのは何故だろう?それでも、少し残った余りを焼かずに食べたときは、小さな頃の事を思い出して懐かしい気持ちになるのだが。

声の砂場から

 ダークサイドオブザムーン。月は自転と公転が同期してる都合で地球に常に同じ側を向けている(であってたよね?)。月の裏側には宇宙人の基地があるとか、色々な妄想があったけれど、多分いつかその基地を建てる宇宙人は人間になるのかな?

 僕はあんまり宇宙に興味がないので、月の話とかそれこそ宇宙人の基地でも見つからない限りどうでも良いのだけれど、月から見る地球とか月の裏から見える景色とか、そういうのを実際に見るときの衝撃ってすげえんだろうなって思う。真っ当に生きてて俺が死ぬまでにリーズナブルに宇宙に行けるとは思えないから、多分実際に見ることは出来ないと思うけど。俺がゲームを詰んでるのは何時か積み上げたゲームの厚みで宇宙に届こうとしてるからだからね!売ってるけど。

何にしても、今まで見上げて来た物の視点に立ったときとか、今まで見上げていた場所を逆に見下ろすようになったときとか、そう言うときの心をガンと殴られるような、嬉しさと寂しさが混じる感情って言うのは大切にしたいなって思う。卒業した母校に訪れて、自分が生活していた教室を見たときのような、郷愁の念めいた物を。
 歳を経るにつれて、そう言った場所を作ることってドンドン少なくなっていくけど、少しでも今居る場所を記憶に残せるように普段よりも右見て左見て生活するってのもなんか積み重ねかなーって感じた。
 失うことは悲しいけど、失ったことを思い出したときの悲しみは何物にも代え難いから、失う物を作っていこう。

 というわけで、僕は月に一歩でも近付くために買ったけど開封もしなかったPS3ソフト、アルノサージュのvita版を買おうと思います。最強無敵だ!待ってろTECMO、ガストは俺が買い支える!!

筆の付いた振り子

 周りの人間と比べてやや大きな自分の心の振れ幅を利用して発電したいと常々思っているのだが、現代の技術では未だに僕の苦悩で収入を得るには至らない。
 俗に言う“ブックホルダー”の方々はその力を行使することで様々な割引を受けることが出来るそうだけど、これは利益を生み出せない未発達な技術の代替として存在しているのではないか。電気代は税金で支払われている?僕はブログを始めることにした。

 真面目な道を進むでもなく、さりとて歩みを止めるわけでもなく、腐れ大学生のモデルケースのように日々を怠惰に過ごしていた。もしこの生活を永遠に続けられるならそれに越したことは無かったけれど、環境は僕に駆け出すか背中を向けるかを迫り、背中を向ける勇気の無かった僕はやむなく駆け出すことを決意した。日々はやや忙しくなった。生活リズムの変化と行動範囲の変化が大きな要因となって、ここ一ヶ月ほどで、この一年で経験しなかった程の量の出来事に遭することが出来た。
 自分の知らない世界や文化に遭遇するというのは大変に楽しい。孤独のグルメで、ゴローちゃんが朝から酒を飲んでいる連中のたむろする居酒屋だかなんだかに入る話があって、僕はそれが大好きなんだけど、ゴローちゃんは戸惑いながら周りの客がどんな生活を送っていて、どんな関係なのかアタリを付けようとする。人間は自分の知識と常識でしか物事を捉えることが出来ない以上当たり前なのだけれど、自分と違う世界に住む、自分とまるで異なる人種の中でギャップに衝撃を受けていたにも関わらず、その人達を彼らとはまるで違うであろう自分の感性で差し測ろうとする。もしかすると当たっているのかも知れない。答えの分からないままゴローちゃんの視点は別の物に移っていく。その、投げかけられたまま消えていく小さな疑問の余韻が僕は大好きなのである。