滲んで汚れた地図を抱いて

 僕は割と頻繁にゲームをプレイしているが、実はゲームが好きなわけではあんまりなかった。僕は小学時代に目を悪くしたことから親にあまりゲームを買ってもらえず、ゲームを遊ぶのは主に友達の家で、友達と一緒に遊ぶためであった。そんな僕が趣味に対して今持っているものは「誰かと会って何かをするほどアクティブなモチベーションは持っていないが、PC越しにだらだら喋りながら一緒にする何かは欲しい」程度の観念であり、故にそれは必ずしもゲームでなくても良く、例えば動画視聴やら雑談やらでも全く構わないのだ。とはいえやはり、家庭用ゲームの隆盛と共に少年期を謳歌してきた僕らにとって、むしろ遊ばないことに違和感を感じるほどゲームが人生基盤に食い込んできているのは間違いなく、ゲームを一切遊ばない自分など、もはやアイデンティティの崩壊もいいところだと言い切ることが出来る。動画視聴でも雑談でもいいが、それならやはり話題はゲームが良い。

 ところで、ゲームを遊べばゲーマーと気軽に言いがち言われがちで、実際それは決して間違ってはいないのだが、じゃあ自分はゲーマーなのかと言われると僕は首を縦には振りづらい。「日本人は趣味を趣味と認めるためのハードルを上げ過ぎる」というような風評はたまに見るが、しかしこれについては完全に、ゲームというカテゴリーに対する向き合い方の問題である。

 

 例えば、プロフィールで「趣味は野球です」と聞いたとする。そんな時あなたはその相手のどのような様子を想像するだろうか。おそらく、相手が休日に草野球なりバッティングセンターに通っているようなものではないか。強制するわけではないが、もしその人物が野球の試合を観たり、様々なそれにかかわるニュースを蒐集することを趣味にしているという場合なら、それは「趣味は野球観戦です」と答える方がより正確であろう。これは野球に限った話ではないが、要するに野球はそのコンテンツに対しての接し方が画一的ではない、様々な角度で楽しむことが出来る物だということだ。そして今、僕はゲームというカテゴリーもまた、それに近い厚みを得られてきていると思っている。

 

 その実態はひとまずとしても、e-sportsという単語が知られるようになって久しい。ゲームセンターのような競い合う場から家庭に環境を移したゲームに、再び競技性を求める人口が増えてきている。人々が集ったゲームセンターのように、インターネットの発達によりその場を必要とせずとも家庭のパソコンや筐体から世界中の対戦相手と交流することが出来るようになったのは、ゲームを取り巻く環境の中で最も大きな変化と言えるだろう(これはゲームセンターにとっては難しい問題でもある)。僕はLeague of Legendsというe-sportsを代表するゲームをシーズン3の終盤頃から遊んでいる(途中休止期間もあった)が、このゲームは確かにその代表として名を馳せるには十分の競技性と、それを支えるユーザー数を兼ね揃えたゲームであった。一方で、e-sportsという概念の定義は広く、例えばLoLではBrandのUltに代表されるような、ランダム性の強い要素を“e-sports”と揶揄する表現はよく使われる。僕が意外に感じたのは、シャドウバースというゲームが出た際にe-sports性を強調する発言が多々見られた時だった。確かにe-sportsが身体を動かすスポーツでない以上、1対1の競技としてe-sportsと表現するのは今思えば間違っていない。実際Detnationに代表される日本のプロゲーマーチームがシャドウバース部門を立ち上げた事を思うと。カードゲームとe-sportsの「シナジー」は決して悪くないものなのだろう(これについてはその先駆者であるハースストーンも証明している)。しかし、お互いに手札を切るカードゲームをスポーツと呼ぶ行為は、当初中々受け入れられなかったものだ。

 

 そんな中で、僕が一番衝撃を“e-sports”概念としての衝撃を受けたのはFF14のレイドレースだ。大迷宮バハムートの頃からレイドレースの概念やワールドファーストを掛けたチームや固定のどうこうはあったが、広くプレイヤー層で攻略中の配信などを取り沙汰されるようになったのは律動編辺りだろうか。アレキサンダー起動編の難易度が高く、またアレキサンダーから実装されたノーマルと零式の区分分けによって、高難易度レイドをプレイせず、観ることで済ませるユーザーが増えたこと、もしくは最上位プレイヤーといわゆるミドル層のユーザーのレベルの差が飛躍的に広がっていった事も考えられる。

 これは先述したハースストーンのようにWorld of Warcraftで既に通った道らしく、僕がそもそもFF14を始めるまであまりネットゲームに対してそれこそLoLくらいしか意欲的ではなかったことから来る無知なのだが、つまり何が言いたいかというと、僕はこの“プレイするユーザー”から“観るユーザー”へとここ最近でちょうど移行した人間だと言うことだ。レイドから完全に離れたわけではないが、練習に時間を割いて自分の動きを徹底的に詰めていこうと思うような気持ちは少なくとも今の僕には無くなっている。

 これについての一つ大きな要因が、もちろん僕自身が学生から社会人への変化を経てゲームに対してつぎ込むことが可能な時間が減ってきている事なのは間違いなく、またそんな中でソーシャルゲームのような片手間でプレイできるゲームを複数抱えていることもまた一つの要因だ。レイドのような集中して取り組むコンテンツを遊ぶ事が、他のゲームを遊ぶ時間を犠牲にしなくては果たすことが出来なくなってしまったのだ。

 

 ゲームを鑑賞するという観点は、今や決してマイナーではない。実際ゲームをリアルタイムで配信するストリーマーや、面白おかしく編集した動画にして投稿するyoutuberに代表される動画制作者は多く存在し、多大な人気を博している。そして例えば日本では、低年齢層を中心にそのような動画を観ることや配信者の話をすることが大きなトレンドにもなっている。しかし、果たして自分がプレイしていないゲームを他人が遊んでいるのを見ただけで語る彼らを“ゲーマー”と言えるだろうか?少なくとも、僕の定義では彼らはゲーマーではない。そもそも、ゲーム“プレイヤー”ですらない。とはいえ、これはゲームというカテゴリーを取り巻く形が複雑化している事の良い傾向であるとは思う。かつて製作者とユーザーというシンプルな形から始まったゲームというコンテンツが、極めて多くの人たちに今支えられている証左だ。・・・しかし、その中で自分がどのポジションに居たいのかという話になれば、またそれは別の問題となる。

 

 僕は確かにFF14を楽しんでいたし、追加パッチに一喜一憂し、レイドに期待して取り組んでいた。普段ゲームをあくまでツールとして楽しんでいた僕が、少なくともFF14では自分をゲーマーだと定義することが出来た。しかし、時が経つにつれ僕のその情熱は少しずつ冷め、少なくとも過去の自分ならこれに取り組んでいただろうというやや引いた立場の目線でそれを眺めるようになってしまった。これは、僕に大きな喪失感と悔しさを感じさせるのに十分だった。自分がかつて持っていたもの、発揮していたもの、それを今持たないこと、そしてもう恐らく得ることは出来ないという自己認識が出来てしまうことは深い落胆と悲しみを伴った。レイドが出来ないからではない。自分が一人のプレイヤーとしての立場から、動画や配信を観るだけでコンテンツを語る、少なくとも自分がゲーマーではないと定義していた人々に近づいて行っている事がとてもやるせなく、素直には受け入れ難かったのだ。ゲームに熱心に取り組んでいる人間なら自分をゲーマーと定義するだろう。配信することに情熱と誇りを持っているならストリーマーだと定義するだろう。つまりそこには、自分が行っているコンテンツへの付き合い方に誇りを持っているということだ。そして僕は、かつて持っていた誇りを今、徐々に見失っている最中だということだ。そんな中途半端な僕は、果たしてゲームを取り巻く環境の中で、自分のような立場を何と呼称すれば良いのだろう。

 

 人生に普遍は無く、環境は移り、いつかゲームにも終わりがやってくる。どんなに楽しんでいても時は過ぎていき、誰もが同じではいられない。今誇りをもって配信している人間が、5年前に何をしていたのか、そして5年後に何をしているのか。しかしそれは、ただ流されていくだけのものではないはずだ。ゲームというコンテンツを取り巻く環境は広がり、今やどのような形でも自分の関わり方を保証してくれるほどに、その裾野は広がっている。だけど僕は、そんな中でも自分の立場を明確にする定義を見つけたい。ファンボーイ?サポーター?オーディエンス?きっとそれはどれも違う。ゲームを程々にたしなみ、ガチになりきれず、しかし離れきることなど出来そうにもない。僕にとって、これはなんだかんだできっと大切なものなのだ。

 将来ますます世界は豊かに便利になり、僕たちは壮年期を、そして老年期をきっとまだ想像することも出来ないような環境に迎える。その未来でのゲーム体験は、今とは全く異なるものになるかもしれない。世間が変わり、僕たちが変わるように、きっとゲームの方だって変わるだろう。そんな将来、僕はそんな自分のアイデンティティをどう定義しているのだろうか。こんな中途半端な自分はどう変わっているのだろうか。願わくばそれが、今と変わらぬ友に囲まれ遊ぶ、幸福なものであらんことを。