電子の海で、また笑いましょう。

 逃げるは恥だが役に立つというドラマが去年流行った。僕は観ていなかったが、星野源が歌う主題歌の「恋」はそのダンスも含め社会現象となった。

 その歌詞の中に「この世にいる誰もふたりから」というフレーズがある。ヒトの家系図を始まりから結べばそれは生命の樹の根のような様子になるのだろう。僕たちは今その末端にあり、尚広がるのか、それとも腐りゆくのかは定かではない。

 環境破壊やら有資源の枯渇やら人類増加に追随する問題をメディアは大きく報道する。僕たちは進歩する中で常に周りを犠牲にし、気付いた時にはもう取り戻せないものばかりだ。環境が変わり、そして僕らの生活も変わる。人生は常に選択の連続だ。しかしそれは多くの場合、選ぶことではなく選ばないことで決定される。地球の人口は爆発的に増加しており、70億人を超えたという。しかし僕たちの生活を変えるのは何時だって選ぶ人間であり、そして僕らの大多数が選ばない人間であるがために、我が家の車は未だに空を飛ばないし、しかし第3次世界大戦はまだ起きていない。

 

 とはいえ人類家系図の末端にある僕らが、それまでの節々にあった彼らが「選ばなければ出来なかったこと」を「選ばずとも出来る」もしくは「たやすく選ぶことが出来る」というのは間違いない。僕は学生時代歴史の講義が好きだった。例えば群雄割拠の戦国時代、彼らはそれぞれのテリトリーを纏め上げ、覇を競いあった。伊達だの武田だの島津だの、南部だの里見だのと名を馳せた彼らの活躍は今も名高く伝えられ決して色褪せることはない。戦国武将ほどではないとはいえ、例えば地元のなんちゃら高校の〇〇先輩とか、どこどこのなんたらとか、つまるところその地元の比較的小さなコミュニティで名を挙げる文化が、昔と比べ今は衰退しているように思えるのだ。

 インターネットが発達し、個人が一生を経て関りを持つ人間の数は飛躍的に増加した。個人が多人数に対して意見を発することができる機会も大幅に増えたが、その中で他者と己を比較するケースも当然増加しており、各々が主張を行う上でネガティブな反応を忌避してそれをやめてしまう事も多々ある。

 しかしそれは決してマイナスな面だけの話ではない。昨今デジタルカードゲームが増えてきた中で話題になったことだが、店舗店舗での強弱、コミュニティが失われていく一方で誰もがランキングから上位の人間を確認し、また自分の立ち位置もはっきりとさせることが出来る。これは、例えばストイックに上を目指したいと思う人間にとって紛れもなくプラスだ。

 

 ソーシャルゲームやネットゲームが栄え(後者はやや怪しいが)、僕も日常的にプレイするようになった。僕はファイナルファンタジー14をメインに遊んでいるのだが、このゲームで最近面白い追加要素があった。

 FF14はそれぞれの装備ごとに性能が定められている。根幹的な性能を保証するアイテムレベルに、それに付随するサブステータスが存在し、自分の思うビルドを組むためにそれを組み合わせて装備を完成させる。多種多様な遊び方が出来るゲームだが、少なくともバトルコンテンツをメインにプレイするユーザーが目指すのは自分が理想とする装備のために目当てのコンテンツをクリアし、その装備を手に入れることである。

 一つ目の大型パッチであった「蒼天のイシュガルド」では、その最高アイテムレベルは270であった。武器のみ275のものが存在し、よほど悲惨なサブステータスでなければアイテムレベルを覆すことはないため、大抵のジョブはそのアイテムレベル275の武器がメインとなった。

 その武器が追加されてしばらく経ち、バトルをメインに遊ぶプレイヤーの多くがそれを手に入れ、6月に次の大型パッチが実装されるまでの長い休憩期間のようなものが訪れ、ユーザーが一息付いていたタイミングで、空島というコンテンツが追加された。

 空島はかつてネットゲームのメジャー要素の一つであり、また最近は下火になってしまったハック&スラッシュ要素の強いコンテンツであり、かつて実装されていたものがリメイク、再実装されたものである。このコンテンツで、非常に稀な確率ではあるものの最高アイテムレベルであった275を上回る280装備がドロップすることで話題となった。

 そもそも落ちるかどうかがランダムであり、落とすためのミッションが発生するかもランダムであり、また落ちたうえで自分が欲しいジョブのものであるとは限らず、さらにそこからランダムでサブステータスが設定されるという、これはカイジの沼か?と思わされるようなコンテンツである。しかし、前述した通りアイテムレベルはサブステータスよりも性能への影響が大きいため、よほどおかしなサブステータスをしていなければ既存の武器を完全に上回るものが手に入ることになった。

 僕はこのゲームのアイテムレベル上げを、甘えの排除であると思っている。スキル回しを突き詰めた時、このゲームは自らよりも装備が強い人間より活躍することができない。そのため、レイド開始直後のアイテムレベルが横並びな状態(最近はそうでもないが)、レイドの最終期がぼくは非常に好きである。勝てないのは自分のせい、というわけだ。

 空島は、どれだけ自分が上手くスキルを回し立ち回っても、レアアイテムを装備しただけのユーザーに圧倒されてしまうのではないかという疑念を持ったユーザーたちによりやや炎上した。しかしそんな一方で、誰も持っていないような装備で誰よりも飛びぬけた数字を出したいと考えるユーザーも多く、それなりに栄えるコンテンツとなった。

 

 FF14は、大型パッチが入ることで既存の装備を遥かに上回る装備が手に入るゲームであることを僕達は一度学んだ。新生エオルゼア時の最後と比べた時、HPもDPSも当時の約4倍の数字が出るようになった。

 今の最強の装備より強いものが、メインストーリーを攻略したり、お店に行くだけで手に入る。そういう世界だ。アイテムレベル280の装備を手に入れたところで、メインストーリーを一心不乱に進めれば更新するタイミングまで1日持つかどうかというレベルであろう。

 この記事を最初に書こうと思ったのは1か月以上前だったので、時期的に大分ずれてしまっているが、空島に280装備を求めて通うようなヘビーユーザーは、殆どが次の大型パッチでスタートダッシュを切り、ゲームの上位層に躍り出ようという人物であると思っている。しかし本当にそうしたい、そうなりたいと思うなら、するべきことはハクスラコンテンツを何十時間も何百時間も周回することではない。僕は蒼天のイシュガルド実装時、1度真剣にスタートダッシュを目指した。その時の記憶と経験から、これを読んだ誰かにメッセージを残せたらと思う。

 

 ゲームを効率的に進めることに最も必要なことはなんであるか。それは時間である。どれほど強力な装備を持っていても、眠ってしまっては眠っていないユーザーに勝てない。食事をしに行ったり、買い物に行ったりしている時間をどう削るかこそが最も肝要である。

 やるべきことはまず、アーリーアクセス前後のプレイ時間を確保することである。

 勿論働いていなければ学校にも通っていない人間も居ると思う。そのような方は後述する部分を読んでいただきたい。しかし仕事や学校に通っていれば、まずは休みを取らなくてはならない。仕事ならば有給の申請を早め早めから行い、それが通るように努め、学生ならばそこでまとまって学校を休んでも単位や講義の進捗に影響がないよう、あらかじめ努力して通ったり、出席を取ったりノートを取ったりしてくれる友人を探さなければならないのだ。これを怠ってしまい、仮にスタートダッシュに成功したとしても、その後大きな問題に発展してしまうと元も子もない。後顧の憂いを絶つためにも、今できることは今のうちにである。

 そして次に、買い物など身の回りのものの整頓だ。

 食事を取るな、トイレに行くな、ペットボトルでどうなどと言うつもりは全くない。しかし、いざとなってからトイレットペーパーが足りないだの、食材の追加買い出しに行くだの言っていてはお話にならないのは明白である。日用品はしっかりと備え、食事のレシピや計画も1週間分ほど改めて立てて準備しておくと良いだろう。

 最後に、心身を健康に保つことだ。人間の身体は突然無理をしようとしてもなかなか上手くはいかない。ネトゲと侮る人も多いかもしれないが、大型パッチ時はとにかく情報量が多い。それに加えてそれこそ眠らずにパソコンやテレビのディスプレイを長時間凝視し続けることになる。当然目、肩、腰へのダメージは大きく、体調を崩すことも十分にあり得る。だからこそ、今のうちからしっかりと筋トレや整体を行い、規則正しい時間に眠り生活リズムを作ろう。だらだらとした生活リズムの人間が突然デスマーチを行っても完遂することは難しい。健全な精神は健全な肉体に宿る、ということである。最後にものをいうのは体力だ。これを忘れないでほしい。

 

 つまり僕が言いたいことは、もしFF14が好きでやることが無くて今空島に通っているならば、好きなもののためにこそ健全に生活せよということである。だらだらと「紅蓮のリベレーター」が実装される日を待ちながら睡眠時間を削ってゲームをするなど愚の骨頂である。ライフプランを考え、今のうちに仕事や学業に精を出し、筋トレして整体行ってさっさと寝ることこそ、あなたが本当にするべきことだ。

 

 人類家系図の此処に至るまでの人々では決してできなかった、生まれも育った場所も違う人たちが、違うままに同じ世界を共有して関り合うということ。インターネットの発達は、他の何よりも出来ないことを出来ることに変えたものだと思う。時にはその関りが嫌になったり、喧嘩をしたりすることもある。でも僕たちはやっぱり、誰かと関わって、笑いあって、一緒に過ごすことが好きだ。

 今は一たび離れてしまっている人たちとも、6月の半ばにまた一緒に肩を並べられる日が来ることを、僕は心から楽しみにしている。